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介護用品を語ろう

二九六七年、V博士がS.W教授の盟友ロウアー教授を訪ねてF大学へ見学に来られたとき、それまで一〇年以上にわたっておこなってきた動物実験の成果をすべて見せてあげたんだ。
目の前で、実際に犬をつかって心臓移植をやってみせた。
その少し前、S.W教授は、「ここまでくるのに一〇年以上かかったが、動物実験はすべてやりつくした。
あとは病院の許可を得て、ドナー(臓器提供者)があらわれれば、心臓移植第一例をおこなう」と、公式に発表していたのに、V博士は南アフリカにもどって、あっと言う間もなく、世界で一例目の心臓移植をやってしまった。
実験的な治療をするのに、こういった姿勢は一番いけない。
「日本でも、残念ながら同じようなことがあったみたいだね。
」と、一九六八年八月八日、札幌医大の和田寿郎教授らがおこなった心臓移植についてふれられた。
「新しい手術をおこなう前には、それによってもたらされる効果とその手術にともなう危険をたえず考えなければならない。
そして実際に臨床に応用する前に、その危険を最小におさえる努力が必要だ。
そのために動物実験かおる。
そうした準備もなく、人に心臓を移植するのは、やはり無謀だと言わざるを得ない。
」そういうB.R教授の話は、先進医療にたずさわる者すべてにとって、そのあるべき姿を明快に示していた。
翌日は、忙しい外来診療のあいだに実験室を案内してもらった。
一九八二年にB.R教授がS大学から移ってきてちょうど三年目、実験室もようやく整備され、子牛や犬など大動物をつかった、心臓や肺の保存および移植の実験がはじめられたところだった。
当時、心臓移植の分野で大きな問題となっていたのは、急性拒絶反応をいかに早期にとらえて治療するかという問題と、ドナー(臓器提供者)から取り出した臓器をいかに安全に長期間保存するかという問題だった。
一九八二年にサイクロスポリンという新しい免疫抑制剤が導入され、心臓移植後の一年生存率は、それまでの五〇%から八〇%以上へと急激に上昇しはじめ、ようやく実験的冶療の段階を抜けだそうとしていた。
それにともない、ヨーロッパや北米では移植を待つ患者が急増したGの数にはかぎりがあった。
当時、脳死となった人から取り出した心臓の保存限界は約四時間となっていたが、その時間がのびれば、ドナーから遠く離れたところで待機している患者にも移植できる。
すなわち、その時点で最もドナーの心臓を必要とする人が移植をうけられるというわけだ。
さらに、心肺移植のほうは、実際に臨床的におこなわれるようになってから四年目。
全米の各チームが安定した保存法を見つけようと躍起になっていたが、Jでも、常温で取り出した心肺を、心臓のポンプ機能をそのまま利用して保存する方法や、体外循環を用いて臓器全体を冷却して取り出す方法など、さまざまな実験がおこなわれていた。
朝から毎日二例の手術の見学、そのあいまをぬって実験室の手伝い……。
こうして約束の一ヵ月はまたたく間に過ぎ去った。
そもそも、学位論文のテーマ探し、という目的をもってJに来だのだが、ここで移植の最先端の研究や、心臓外科のレジデントがうけているトレーニングの効率のよさなどをつぶさに見るにつけ、実際にいま自分が日本で経験している現実とあまりにかけ離れていることに愕然とするばかりだった。
自分がいったいどんな心臓外科医を目指そうとしているのか、Jで見たことをふまえて、もう一度つきつめて考えてみる必要を感じていた。
学位論文のテーマを決めること以上の大きな課題をカバンにつめて、私は帰国の途についた。
帰国してまもなく、思いかけず大阪の母から電話があった。
知り合いのK.Eさんが(原発性肺高血圧症)と診断され、今は自宅に酸素をもちかえってしのいでいるが、最終的には心肺移植しか方法がない、と言われたという。
「あなた、その手術ができる先生のところに行ってたんでしょう?」K.Eさんは、K大学文学部心理学科を卒業した才媛で、母が趣味で教えている茶道のお弟子さんの一人だった。
うちの向かいに住んでいたYさんも茶道に興味をもってO大学在学中から稽古に来ていた。
無類の世話好きの両親が、「これはきっと、ベストカップルやわ」と引き合わせたところ、とんとん拍子に話がすすんで、結婚されたのだった。
Yさんは、私か小学生のころ、勉強を教わったり、中学・高校時代には、読んだ本についていろいろ話をしたりして、青少年期において、大きな影響をうけた人のひとりだった。
結婚当初、K.Eさんは心理療法師として活躍中で、建設会社で設計を手がけている一郎さんとは、おたがいの能力を最大限に引き出しあうために努力をおしまない、まさしく「理想のカップル」だった。
K.Eさんが原発性肺高血圧症にかかっていると聞いた時の衝撃は相当なものだった。
まさに心肺移植以外には根本的な治療法のない病気だったからだ。
心肺移植は、アメリカでようやく実験的治療の域を脱しようとしていたが、日本では、まだ心臓移植再開のメドもたっておらず、まして心肺移植がいつできるかなど、見当もつかない状況だった。
それに心肺移植自体、まだ四年の歴史しかないため、移植後にどれだけ生きられるのか、よくわかっていなかった。
しかし、K.Eさんのことは、とても他人事ではすますことができず、アメリカで心肺移植をうけることが治療の選択肢の一つとして考えられるかどうか確かめて欲しい、という母の要請もあって、B.R教授に手紙を書くことにした。
一ヵ月ほどして来た返事には、アメリカでは、サイクロスポリンの普及により、心臓移植をおこなう施設が一〇〇以上にもなり、移植待機者の待ち時間がどんどん長くなっていること、また心肺移植では、ドナー側に、心臓だけでなく、肺にも感染や外傷がないなど、より完璧な状態が求められるため、待ち時間がさらに長くなっていることが詳しく書いてあった。
現時点では、移植リストに載せても、いつ移植できるかわからない、また待っているあいだの入院費用も莫大なものになるという。
そして最後に、臓器(心臓や肺)の保存を学位論文のテーマにして研究してはどうか、もし二四時間の保存が可能になれば、アメリカで発生したドナーの心臓や肺を日本に送って移植ができるかもしれないし、心肺保存の研究はJでもつづけてやっていけるから、留学する気持ちになった時に、一貫性のある仕事ができるのではないかと結んであった。
このB.R教授の手紙が大きな刺激となって、心臓の保存についての研究を学位論文のテーマとして選ぶ決心をした。
J大学で見た研究施設や心臓の手術に魅せられ、ぜひ、B.R教授のもとで仕事をしたいという気持ちが強かったこともあるが、二四時間の臓器保存が可能なら、日本で移植手術ができるかもしれない、そうすればK.Eさんを助けられるかもしれない、という安易な期待を抱いていたのも事実だ。
当時の私には、残念ながら「脳死」と移植の問題を、自分たち日本人の問題として正面から取り組む姿勢に欠けていたし、アメリカには臓器を公平に分配するネットワークシステムかできあがりつつあり、ただでさえ少ない心肺のドナーを国外に運ぶ可能性など、ほとんどないことを知るよしもなかった。
残念ながらK.Eさんは、この時から四年後の一九八九年五月二日、兵庫県の市立芦屋病院で三七歳の生涯を閉じた。
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